毎朝、目覚めるとセミの声が聞こえるようになりました。
夏だなぁ。
それだけで幸せな気持ちになるのは、子どものころの夏休みを思い出すからでしょうか。
子ども時代、8月の2週間を祖母の家で過ごしました。
虫取りに川遊び、花火、スイカ、冷やし中華、夏にしか味わえない楽しみがありました。
あるとき、新聞に投稿された短歌と俳句を詠みながら、祖母が尋ねました。
「この詩についてどう思う?
『セミが鳴きました。お世話になりました』
この読み手はこの後、どうしたのかしら?」
伯母は「死んだのでしょうね。命が短いセミを例えに使っているのだから」と答えました。
母は「私も死ぬ覚悟をした人の詩だと思う」
祖母は「そうね。私も初めにそう感じた。死ぬ覚悟をして、すべての整理をしている、そんな状況が浮かんできたの。
もし、そうだとしたら、この人と相手の方はどんな関係だったのかしら」
小学生だった私も、この読み手は死ぬ覚悟をしたのだと思いました。
でも同時に、生きるつもりの詩であってほしいと願いました。
大切な人のもとを去る覚悟をした、共に過ごす約束の季節が終わった、そんな状況を心に描きました。
祖母も伯母も母も私と同じことを考えたらしく、それぞれ別の解釈も披露し、語り合いは続きました。
今、私はライターという言葉を扱う仕事をしています。
その下地は、こうした家族との会話から培われたのだと、セミの鳴き声を聞いて気づきました。
毎年、セミが鳴くと考えてしまいます。
あの歌の詠み手は、あの後どうしたのだろうかと。
どんなに愛おしい季節にも必ず終わりが訪れます。
でも私は、終わりを儚むよりも、今ここにある時間を楽しみたいと思います。
さぁ、たくさん遊ぼうっと。